思春期の虎の巻[第八回] 十五歳・二 「ピンチはチャンス」

思春期の虎の巻

2018.10.15

今回は、中学生にとっての最大の難関、高校受験について書きたいと思います。

前にも書きました通り、私は中学二年生位から鬱の兆候がありました。
しかし、お調子者を演じる私を誰も問題があるとは気付く事はありませんでした。

それでも、私は前にも増して生活がだらしなくなって行きましたし、成績も徐々に落ちて行ったのでした。

神奈川県にはその当時、「アチーブメント・テスト」という物があり、二年生の三学期に受け、公立高校の受験にも適応されていました。
主要五科目だけでなく、全教科の学力テストでした。
私はその「ア・テスト」の成績が良く、あの憧れ?の時任先輩と同じ高校を目指していました。

しかし三年生になると鬱の為、集中力が無くなっていき、物覚えが悪くなっていきました。
それまでは一夜づけが出来たのですが、簡単な単語も覚えられなくなり、
「何でなの?私の馬鹿!馬鹿!」
と泣きながら頭を殴り、勉強を続けました。
しかし、学力低下の歯止めは効かなくなりました。
そして、もともと低かった自信を無くしていきました。

三年の一学期、時任先輩と同じ高校は無理と副担任に言われました。
(私の頭、馬鹿になったんだ……覚えらないんだもの)
ぼんやりした頭で、私は自分を軽蔑しました。少し泣きました。

私は勉強する意欲も無くしていき、せっかく通わせて貰っている学習塾もサボりがちになりました。
やぶれかぶれでした。

それから話は飛んで、二月十八日、忘れもしない雪の日、県立高校の受験が終わりました。
私は「K高校」を受験しました。
副担任からは更にもう一段下の「H高校」を勧められました。
しかし、姉の通う「H高校」は父がPTAの会長をしていました。
自分の人間性に自身の無くなっていた私は、注目されることを絶対に避けたかったのです。

――偽善者でしたから。米田さんの言う通り。

不合格の夢も見ました。
しかし、結果は受かっていました。

二月のある日、副担任が血相を変え教室の私の方へ走り寄って来て、こう告げました。
「あなたのお母さん、高校の手続きしていないそうね!今日までよ!」

私はわけが分かりませんでした。
「高校から電話があったわよ!お母さんは家に今いるの?」
そう言うと彼女は教室から飛び出して行きました。
そして廊下で叫びました。
「親も子供もだらしないんだから!」

その一言が胸に刺さりました。

母は看護師の再就職を辞めた後も、少々鬱状態でした。
学校で傷ついた私は、その可哀想な母に、帰宅後あたりました。

「お姉ちゃんになら、こんな無関心なことしない!お母さんにとって私は重要じゃないんだ!」

私がそう言い放つと、母は
「ごめん。ごめんね」
と泣いていました。
それを見て私は
(今、私は加害者なんだ)
と何とも虚しい気持ちになりました。

(母に皺寄せする私は、何て汚い小人物なんだろう。米田さんは見抜いていたんだ)

益々、心は疲れ果てて行きました。

三月、高校の説明会に母と友人の親子と連れ立って出かけました。
何とか手続きは通ったのです。

春の日差しの中、今度から通う新しい学校の中を歩きながら、私は自分が何の感慨も湧いてこない事に驚きました。
周りの子達ははしゃいでいるのに。
(…私は、おかしい。敗残者だ)
そうぼんやり考えていました。

鬱になると『自分・周囲・将来』に対してマイナスに考えがちになります。
「集中力もない、物覚えの悪い自分は駄目な人間だ」
「周りも馬鹿と思っている」
「どうせ、将来、上手くいくはずない」と。

認知行動療法、その他の心理学、精神医学は教えてくれます。
鬱になったら兎に角、休みましょうと。
少し休んで元気が戻ったら、対策を一緒に考えて行きましょうと。
認知行動療法と精神科のお薬との二本立てが、ぶり返さない治療法と最近注目されています。

そして、認知行動療法のセッションを受けた人は、その後にもし再び精神の危機に立った時にも活かせる、対応方法のコツを教えて貰えます。

私は、自分の将来を憂えている自分、そのポーズに一種の慰めを得ていたように思います。
ギリギリのところで、「私は高級なんだ」と思おうとしていました。
周りの輝いている仲間を見ながら、目の虚ろな私は……。

乗り越えた今、貴重な体験だったとは言えます。
そして、自分が好きになれました。
将来にも希望を抱いています。

もし、近くに鬱の方がいるのでしたら、簡単に「頑張れ!」とは言わないでください。
出したくても、力が出ないのです。兎に角、見守ってあげて下さい。

乗り越えたら必ずこう思える筈です。
ピンチはチャンスだったのだと。

 

(森詩子

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