母の誕生日に寄せて――命の重さを問う

学院長・石川千鶴

2025.11.03

◆ 時が止まった日

母を失ってから、まもなく三年になります。
けれど、私の中の時間は、今もあの日の瞬間で止まっているように感じます。

季節が巡り、周囲が変わっても、母を失った日から私の時計だけが動かないままです。

母は、誰よりも穏やかで、人に優しい人でした。
幼い頃からずっと、どんなときも私を守り、支えてくれました。

病を患っても、「医療を信じ長生きできるよう頑張る」と言い続け、
「ありがとう」「頑張るね」「元気になるね」との言葉を残しながら、
その想いのまま、ある日突然、私たちの前から奪われました。

その存在は、今も私の心の奥に、留まり続けています。

時

◆ 置き去りにされた「心」

この約三年の月日の中で、私は何度も自分に問いかけてきました。
「なぜ、助けを求めたのに、手を差し伸べてくれなかったのか。」
「なぜ、あんな出来事が起きたのか。」
その答えを探すうちに、私は一つのことに気づきました。

――人の命を支える場において、時として「心」が置き去りにされてしまうことがあるという現実です。

命を守るための技術や制度は、現代社会で大きく進歩しました。
国や行政も、医療や介護の現場で尊厳を守るための仕組みや基準を整えようとしてきました。

しかしその一方で、現場にいる人間が、その基準ではなく、
「どうせ高齢だから」
「どうせ長くは生きられないのだから」
「どうせ病気なのだから」
といった自分の判断を優先し、それがいつの間にか無意識の基準になっていく。

その結果、本来守られるべき尊厳や、かけがえのない命そのものが、軽く扱われてしまう。

母は、生きようとしていました。
けれど、その意思よりも先に、現場の都合が母の命を終わらせました。

制度は存在していても、それが実際の人のいのちに届かなかったとき、命はどれほど容易に奪われてしまうのか。
――その現実を、私は目の前で突きつけられました。
私たちは、その静かな危うさの中に、今も暮らしています。

母の記録を見返すたびに、私は考えます。
命の灯が消えるその瞬間まで、人がどう扱われるのか――それは社会の良心の鏡です。

最期の場に立ち会った人間が、「自分の都合や基準」でその人の最期を決めてしまうものではない。
その人が生きてきた時間の重みと、生きようとする意思を受け止めるまなざしが、必ず必要です。

それは、命を預かった側の責任そのものだと、私は思っています。

供養

◆ 命に序列をつけないということ

年齢や病状にかかわらず、人は誰もが尊重される存在です。

「命の価値に序列をつけない社会」こそ、私たちが次の世代に手渡すべき未来だと信じています。

◆ 母の死を無駄にしない

この約三年のあいだ、私は何度も夜中に目を覚まし、「お母さん」と叫びました。
夢の中で母に会い、目が覚めてから涙を流す
――その繰り返しの中で、心の奥底に一つの思いが生まれました。

「母の死を無駄にしない」という決意です。

あの日の記憶を、悲しみだけで終わらせてはいけない。
なぜなら、見過ごすことは、同じことを未来に繰り返すことにつながるからです。

人は誰しも老い、病を抱え、誰かに支えられて生きています。
そのときに最も必要なのは、「命を預かる技術」だけではなく、「命を支える心」
――すなわち他者への敬意と誠実さだと思います。

母が教えてくれたのは、「人を思うこと」「心を寄せること」が命を支えるということでした。
その教えは、いまも私の心の中で静かに灯り続けています。

◆ 88歳の誕生日に寄せて

今日は、母の誕生日です。
生きていれば、88歳の誕生日でした。

きっといつものように、小さなケーキを前に微笑みながら、「ありがとう」「あなたも元気でね」と言ってくれたと思います。
その姿を思い浮かべると、胸の奥が静かに疼きます。
同時に私は、母が残した思いやりの心を、社会の中で必ず生かしていくと、改めて誓います。

誕生日ケーキ

◆ 痛みと共に生きていく

母を失ってから、まもなく三年になります。
私はいまも深い悲しみと苦しみの中にいます。

痛みは引きませんし、癒えたと言うこともできません。
それでも私は、「命の重さ」「心の在り方」「人間の良心」を問い続けることをやめていません。
それが、今の私にできる生き方だからです。

私は信じています。
真実と誠実に向き合う人が増えれば、社会は少しずつでも変わっていく。
その変化はすぐに慰めにならないかもしれません。
けれど、同じ苦しみをこれ以上生まないという願いは、確かに未来へつながります。

私はまだ、母の死を乗り越えてはいません。
しかし、この約三年間の年月で気づいたことがあります。
――大切な人を想い続ける気持ちは、弱さではなく、深く愛した証であるということです。

母を想うたびに、私は自分の心の奥に、まだ痛みがあることを知ります。
その痛みは、私が母と生きた証であり、いまも私を現実に留めている最後の糸のようなものです。
母を想うその気持ちに支えられながら、母のように人に優しく、誠実に生きていければと――ただそう願うだけです。

――止まった時の中で、私は今も、母と共に生きています。

鶴

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